日常

沼は味わうためにある

生きているうちに何度かハマる”沼”がある。


ある時、急にハマり抜け出せなくなる。
何も手につかずその事ばかりを考え、考えても考えてもどうしようもないのに考え
手に入れることも 自分の中で消化するこも すり潰すこともできないことに微かに絶望しながら
まだそのことについて頭痛がクラクラするくらい考える。
そんな時はもう完全に自分から思考は奪われ、あれだけ自らを苦しませてきたトゲトゲした自己批判さえも思い出す余地もなくなり、ほとんど無気力にさせられる。

それが”沼”だ。

それほどの力を持つ”沼”は「世界観の解像度」が強烈になることによって現れてくる。
映画、ドラマ、音楽、恋愛、漫画、小説、ファッション、美容、整形…..はじめこそ興味があるとか、趣味だとかそういったものだろう。しかしそれらの「世界」が自分の中ではっきりとした解像度を持って見えてくるようになると突然”沼”と化すのだ。
そこにハマった時は焦り、早く抜け出そうとする。自分に不毛な犠牲が降りかかるのは明らかだからだ。有限な時間をまるで無駄にしてしまうに違いない。
そしてまた一方で、その”沼”は自分にとって恐らく気力を完全に奪うほど甘美であろうことも、頭のどこかではっきりとわかっている。わかっているからこそ、おいそれとはハマれない。

何よりも、沼から抜けた後が恐怖だ。
そこから抜け出した頃には、私は完全に浮世離れした価値観の持ち主になってしまうのかもしれない。ハマったらいつ抜け出せるのか分からない。なんであんなことをしていたのだろう…と後悔するだろう。価値のないことかもしれない、もしくは自分のなかで成長できるはずだった価値をみすみす逃すかもしれない。

迂闊に”沼”に足を踏み入れたその瞬間から、足元の地盤は完全に失われ、簡単には陸には戻れなくなる。暴れれば暴れるほど粘着質な”沼”は体を沈めようとする。どっぷりと完全に浸されてこちらから気力を奪うのだ。そして思考は沼のことだけでいっぱいになるのだ。
そのくせ”沼”はある時突然、蜃気楼の如く消えたりする。前触れもなく突然姿を消すのが沼の特徴だ。
沼が突然消えた時は「ああ、これでやっと楽になれる」という感情と
また沼を失ってしまったことで大きな虚無感に襲われる。

若い時は幾度となく”沼”にうっかり入り込んでは深く後悔した。
だから大人になるにつれて学習し、意図的に”沼”を回避するよう注意するようになった。
後悔しないように。沼を見過ごすようになってから結構経つと思う。

ある時、私は”沼”を目前として久々に悩んでいた。
入ったら後悔するのだろうとずと身動きが取れなかったけど、
いつも通り素通りすべきだろうとも思っていた。
そんな時、”沼の住人”に出会ったのだ。その人は沼を軽やかに楽しんでいた。
抗うでもなく恐れることもなく、沼に静かに淡々と浮いている感じで。
その浮き方は自然で、沼に対してとても「真摯」的だったのだ。
私はその人に”沼”にハマることへの恐怖を相談したところ、こんな言葉をかけてもらった。

人生では思わぬところで予期せぬ沼にハマってしまうものです。
でも、そういった沼ほど大きくて深いものはないので、
これからたっぷり味わってください

そのことを聞いて私は少し恐怖が治った気がした。
沼は恐れることはないのかもしれない。
沼にハマることを後悔する日も来るかもしれない 無駄だと思うかもしれない。
沼の消失の時 虚無感に襲われるのかもしれない。
でも、沼に浸かることはもしかしたら決して悪くないのかもしれない。
その人は今 密かに私の尊敬する人になった。

この頃から、はっきりと沼にハマれるのことは幸福なことかもしれないと考えるようになった。
沼にはまれることは余程惚れっぽい熱中しやすい気質の人でない限り滅多にない。
私のように他人にも物事にも無関心な人にはなかなか訪れない特別なものなのかもしれない。

たいしたこともできない平凡な私、
かといって周りを気にせず日々を思い切り自分勝手に楽しむ事すらできない私なら、幸運にも与えれた至福の沼を堪能すればいい。
しっかり味わいながら、どっぷり浸かりながら。

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